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2024年に…
1月1日に災害は起きない…、どこかで思ってました。そんな隙をつくように地震は起きました。
長い地震でした。揺れている間いろんなことを考えました。もっと長く揺れが続いたら終わりなのかもしれない…。
廣田ピアノ教室は石川県金沢市にあります。
地震の時私は教室にはいなかったため、以前聞いた話が頭に浮かびとても心配になりました。その話というのは、地震の瞬間グランドピアノが飛び上がり、インシュレーターから外れて部屋の中をぐるぐる動き回ったという、何十年も前の宮城県沖地震の時の話なのですが。
教室を確認すると、ピアノが動き回ることもなく室内に被害はありませんでした。しかし何人かの生徒の家で困った事が起きていました。家が傾いて住めなくなったり断水が何日も続いたり…。
でも、能登はそれどころではありませんでした。
直後から安否確認が始まり悲しい話をたくさん聞きました。
コロナでダメージを受けて、それでも乗り越えようとしていた矢先にこんな仕打ちか!
しばらくの間は、生きていくとは試練の連続なのだと、辛い気持ちをやり過ごそうとしていました。被害に遭わなかった私でさえ暗く沈んでいたのに、家族を亡くし住む所も何もかも失った人達はどんな気持ちで耐えていたのでしょう。
出不精の私は、知らない土地に自分から出向くタイプではありません。旅行に行こうと誰かを誘うこともありません。そんな私を知らない土地に連れて行ってくれたのは、ピアノでした。
合唱と縁があり、伴奏者としていろいろな合唱団と活動するうちに、コンクールで上位大会に進む団体が出てきました。自分自身ピアノでコンクールを受けたこともないのに、これまでに合唱団の伴奏者として何度か全国大会を経験することができました。
2002年、中学校の部の全国大会が神戸で開催され、私は阪神・淡路大震災後の神戸に初めて行きました。
その時の驚きをよく覚えています。地震直後にテレビで見た、まるで戦争の後のようにさえ感じられた壊れた街が嘘のように変わっていました。更地が広がり、あちこちでクレーンが空に向かって伸びていました。人間の力ってすごい!どんな事が起こっても、人にはそれを乗り越えていくすごい知恵と力があるのだということを、その時誇りに思いました。
2011年には東日本大震災が起こりました。地震の瞬間私は金沢市内の小学校にいました。卒業生の謝恩会が始まる時間だったのに火災報知器が誤作動してしまい、先生方が困っていました。火災報知器は遠くの地震を感知して異常を知らせていたのです。
自宅に戻ってからテレビの報道を見てショックを受けました。見ている画面の中に手を伸ばしてあの人達を救ってあげたい…。きっと全国の人が思ったことでしょう。今起きている災害をただ見ているしかない無力感。津波はほんとうにに恐ろしいものでした。
それから7年後、宮城県岩沼市での復興コンサートに出演する合唱団に誘われ、伴奏者として参加させてもらいました。

その時の印象は神戸の時とは違いました。津波で甚大な被害を受けた場所をいくつも巡り、自分の目で確かめ、記念碑に触れ、現地の方の話を聞き、土台だけが残った家々の跡を見、津波の威力とそれを目の前にした人達の絶望を肌で感じました。どんなに怖かったか、すごく苦しかっただろうとかわいそうで悲しくて何度も涙が出ました。
コンサート後には、聴いてくださった方々との交流の時間もあり、被災された方とお話しする事ができました。
初めて言葉にするのですが…と、震災当時は子どもだった方が、「お友達が亡くなりました。家も近くだったのに、その子は死んでしまって私は生きている。自分だけが生きていて申し訳ない…と、ずっと思って生きてきました。」とみなさんの前で話されました。
この方は何年も言葉に出せず、長い間気持ちを閉じ込めて大人になったのです。
心の内を言葉にできて良かったと思いました。時間が経ったせいなのか、私達のコンサートが心を動かすきっかけになったのか…。

遠くから思っているだけでは被災地のことはわからない。その地に自分の足で立って見てみないと本当のことを知ることはできない。
私はまだ能登には行っていません。行った人から聞く話では、何も変わってないという残念な話ばかりです。
9月には豪雨災害によって、また大きな被害が出ました。地震よりもひどいと嘆く方がたくさんいらっしゃいます。
2024年は命についてたくさん考えた年でした。
突然命がなくなってしまうということ。大事な人にサヨナラも言えずに、もう2度と会えなくなるということ。何もかも失っても、それでも命を繋いでいくということ。
大切な人を失った方、被災されて苦しみの中にいらっしゃる方。辛い思いをされた方々にとって、新しい年2025年が希望が持てる明るい年となりますように。
長い地震でした。揺れている間いろんなことを考えました。もっと長く揺れが続いたら終わりなのかもしれない…。
廣田ピアノ教室は石川県金沢市にあります。
地震の時私は教室にはいなかったため、以前聞いた話が頭に浮かびとても心配になりました。その話というのは、地震の瞬間グランドピアノが飛び上がり、インシュレーターから外れて部屋の中をぐるぐる動き回ったという、何十年も前の宮城県沖地震の時の話なのですが。
教室を確認すると、ピアノが動き回ることもなく室内に被害はありませんでした。しかし何人かの生徒の家で困った事が起きていました。家が傾いて住めなくなったり断水が何日も続いたり…。
でも、能登はそれどころではありませんでした。
直後から安否確認が始まり悲しい話をたくさん聞きました。
コロナでダメージを受けて、それでも乗り越えようとしていた矢先にこんな仕打ちか!
しばらくの間は、生きていくとは試練の連続なのだと、辛い気持ちをやり過ごそうとしていました。被害に遭わなかった私でさえ暗く沈んでいたのに、家族を亡くし住む所も何もかも失った人達はどんな気持ちで耐えていたのでしょう。
出不精の私は、知らない土地に自分から出向くタイプではありません。旅行に行こうと誰かを誘うこともありません。そんな私を知らない土地に連れて行ってくれたのは、ピアノでした。
合唱と縁があり、伴奏者としていろいろな合唱団と活動するうちに、コンクールで上位大会に進む団体が出てきました。自分自身ピアノでコンクールを受けたこともないのに、これまでに合唱団の伴奏者として何度か全国大会を経験することができました。
2002年、中学校の部の全国大会が神戸で開催され、私は阪神・淡路大震災後の神戸に初めて行きました。
その時の驚きをよく覚えています。地震直後にテレビで見た、まるで戦争の後のようにさえ感じられた壊れた街が嘘のように変わっていました。更地が広がり、あちこちでクレーンが空に向かって伸びていました。人間の力ってすごい!どんな事が起こっても、人にはそれを乗り越えていくすごい知恵と力があるのだということを、その時誇りに思いました。
2011年には東日本大震災が起こりました。地震の瞬間私は金沢市内の小学校にいました。卒業生の謝恩会が始まる時間だったのに火災報知器が誤作動してしまい、先生方が困っていました。火災報知器は遠くの地震を感知して異常を知らせていたのです。
自宅に戻ってからテレビの報道を見てショックを受けました。見ている画面の中に手を伸ばしてあの人達を救ってあげたい…。きっと全国の人が思ったことでしょう。今起きている災害をただ見ているしかない無力感。津波はほんとうにに恐ろしいものでした。
それから7年後、宮城県岩沼市での復興コンサートに出演する合唱団に誘われ、伴奏者として参加させてもらいました。

その時の印象は神戸の時とは違いました。津波で甚大な被害を受けた場所をいくつも巡り、自分の目で確かめ、記念碑に触れ、現地の方の話を聞き、土台だけが残った家々の跡を見、津波の威力とそれを目の前にした人達の絶望を肌で感じました。どんなに怖かったか、すごく苦しかっただろうとかわいそうで悲しくて何度も涙が出ました。
コンサート後には、聴いてくださった方々との交流の時間もあり、被災された方とお話しする事ができました。
初めて言葉にするのですが…と、震災当時は子どもだった方が、「お友達が亡くなりました。家も近くだったのに、その子は死んでしまって私は生きている。自分だけが生きていて申し訳ない…と、ずっと思って生きてきました。」とみなさんの前で話されました。
この方は何年も言葉に出せず、長い間気持ちを閉じ込めて大人になったのです。
心の内を言葉にできて良かったと思いました。時間が経ったせいなのか、私達のコンサートが心を動かすきっかけになったのか…。

遠くから思っているだけでは被災地のことはわからない。その地に自分の足で立って見てみないと本当のことを知ることはできない。
私はまだ能登には行っていません。行った人から聞く話では、何も変わってないという残念な話ばかりです。
9月には豪雨災害によって、また大きな被害が出ました。地震よりもひどいと嘆く方がたくさんいらっしゃいます。
2024年は命についてたくさん考えた年でした。
突然命がなくなってしまうということ。大事な人にサヨナラも言えずに、もう2度と会えなくなるということ。何もかも失っても、それでも命を繋いでいくということ。
大切な人を失った方、被災されて苦しみの中にいらっしゃる方。辛い思いをされた方々にとって、新しい年2025年が希望が持てる明るい年となりますように。

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